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東京富士大学卓球部−卓球部紹介−

日本の肖像


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日本の肖像 西村 卓二


(NITTAKU NEWS『日本の肖像 西村卓二』より抜粋)


日本卓球界再生への提言
監督をこのまま続けるべきか、それとも、自ら身を引くべきなのか―――。西村卓二は悩みに悩んでいた。アテネ五輪終了後の、昨年9月のことである。悩み抜いた末に下した決断の背景には、ある大いなる想いが宿っていた。

サッカーにしろバレーボールにしろ、どんな競技であっても、ナショナルチームの監督という立場には、厳しさとともにある種の孤独感が感じられる。求められるものはただひとつ"勝利"だからである。勝つ、ということが至上命題なのだ。
勝負の世界とは、そんな厳格さが伴う場所である。もちろん卓球界も例外ではない。

01年10月にナショナルチーム女子の監督に就任以来、およそ3年。西村は日本卓球界発展のために尽力し、球界を牽引し、そして常に結果を残し続けてきた。
在任期間中のアジア大会やアジア選手権、世界選手権等、すべての団体戦でメダルを奪取。アテネオリンピックではメダルにこそ手が届かなかったものの、出場した女子3選手全員がベスト16と健闘。日本女子の存在感をアピールしたことは記憶に新しい。

中でも福原愛の躍進は卓球ファンのみならず、一般の人に卓球の醍醐味を大いに知らしめることになった。それを演出したのも、西村の采配によるものなのである。
3年間、当時13歳の福原を日本代表に抜擢したことには、賛否両論が渦巻いていた。しかし、<福原は間違いなく天才。将来性もあり、ナショナルチームへ入れることで、卓球界の活性化につながっていく> そう確信していた西村は、ためらうことなく福原を起用。そして、世界ベスト8、アテネ五輪ベスト16へと導いた。

確実にナショナルチームの内部へと浸透し始めていた西村の指導。内側に染み込んだ西村イズムは、これから科学反応を起こし、"新生ニッポン"となろうとしていた。


"捲土重来"をテーマに掲げ日本復活へ奔走した日々
2001年10月。
西村は日本卓球界再建の切り札として、ナショナルチーム(NT)女子の監督に就任した。
半年前の世界選手権大阪大会で、日本女子は団体戦で銅メダルを獲得したとはいえ、それは羽佳、高田両選手の力によるところが大きかった。
厳しい状況に置かれていた日本は、選手全体のレベルアップと、若手の育成が急務の課題だったのである。

そこで西村は、アテネ五輪までの3年間を短期・中期・長期と分け、それぞれに目標を設定。
その期間の各大会でのメダル獲得をまず目指した。そして、最終目標として北京五輪、世界選手権において金メダルを獲ることを最終の目標とした。

「それを実現するために、各選手の母体コーチと我々のあいだの指導のズレをなくさなければならなかった。
そこで、毎月の国内合宿時に母体コーチと意見交換会を開き、プロツアー等にも母体指導者を派遣しました。
選手と母体が一丸となって戦って成果を上げたい、それが日本式の強化だと思いました。
そして、出た結果はすべて私が責任を取る。そういう心づもりでいました」(西村)

母体の指導者たちとは、電話はもちろん、メールやファックス、手帳などで頻繁にそして率直に意見をぶつけ合っていった。方向性について食い違うこともしばしばあったが、そこは徹底したやりとりでひとつの方針にまとめていった。

日本代表女子チームの全体の指揮者が西村であるならば、各パートに首席奏者が必要となる。技術者やフィジカル面、戦術面、あるいは情報収集などといった専門的なエキスパートである。

これについて西村は、
「いまはひとりの優秀な人間がすべてを仕切る時代ではなく、各分野の専門家の力を借りなければなりません。
日本には、これだけは負けない、という有能な人材が豊富ですから」
という。

カリスマによる支配ではなく、場合によっては異分野からも協力を仰ぐ。
たとえば、早朝の武蔵川部屋へ稽古見学に選手を連れて赴く。戦いの場の闘争心を学ばせるためだ。他競技のメダリストやその指導者に講演をしてもらったこともある。

広範囲から卓球に有益なものを取り入れ、それをひとつに結集し総合力で勝負していく。それが組織を厚くすることにもつながる。こうした手法を西村はとったのである。すべては"世界"で勝負を賭けるために―――。
「いいものはいい。しかし、ダメなものはダメ」
と、はっきりモノを言い、斬新なアイデアを次々に打ち出す西村だが、一方で、古きよき日本を大切にする一面も垣間見える。
その最たるものが<捲土重来>という西村が好んで使う言葉に表れている。

「日本の卓球は一度敗れたが、砂けむりを上げるような勢いで、再び盛り返し強い日本になろうじゃないか、という意味でスローガンとしてあげました」
と言う西村は、<古さ>と<新しさ>を融合させ、日本独自の精神文化を生かしながら、その中で選手育成と強化を図ったのではないだろうか。
こうした取り組みは、徐々に選手たちに浸透し、そして成果を上げていった。

2002年のアジア競技大会、翌年のアジア選手権の団体で日本女子はメダルを獲得。パリでの世界選手権個人戦(2003年)では、弱冠14歳の福原愛がベスト8に進出。周囲をあっと言わせた。

福原の起用については、
「まだ時期尚早なのでは?」
「話題性だけで選んでいるのではないか?」
そんな批評もあった。それはもちろん承知していた。しかし、西村には揺るぎない信念があった。
<福原は間違いなく天才だ。日本の宝である。だから、いまこの時期から使うべきだ>
そう思い、考えを曲げなかった。
アテネ五輪の国内選考のときもそうだった。理事会の承認を得、国内予選会を行わずに福原をアジア大陸予選に出場させた。

このときの心境を西村が語る。
「世界ランクから見れば福原は国内3番目でしたし、国際オープン大会のアンダー21で2回優勝もしていた。
ですが、賭けではありました。もしアジア予選を通らないようなことがあれば、監督を辞任する覚悟でした」


日本の銅メダル獲得は、"連携プレー"によるもの
西村の目に狂いはなかった。
予選なしで半ば強引に推した福原が、アテネでは格上選手を連破して見事ベスト16まで勝ち進んだのである。
それはまた、海外で行われた卓球の大会としては異例のライブ中継という副産物まで産むこととなった。
<卓球界の宝>はこうしてよりメジャーになっていったのである。同時に、梅村と藤沼も16強に入った。
上位ランカーに勝って、3人が五輪のベスト16に進出した意味と意義は大きい。

アテネ五輪の5ヶ月前、西村の真骨頂を示す大会が開かれた。ドーハでの世界選手権団体戦である。
前回の大阪大会では、当時の近藤欽司監督が率いて銅メダルを獲得している。もしこの成績を下回るようなことがあれば、西村の責任問題に発展することも考えられる。

かねてより西村は、
「NTの監督は、世界で勝つことが使命である。
いい成績が残せなければ、もう次はない。
NTの監督はそういうものである」
との持論を持っていた。そして、NT監督に就任してすぐのインタビュー(ニッタクニュース2002年2月号)では、
<結果が出ないと駄目ではなく、結果に行くまでの過程が正しく、清潔できちっとしたことであれば、いい結果が出ると信じています>
と、自信を見せている。

しかし―――。
そうはいっても、勝負の世界には"絶対"はない。西村は世界選手権ドーハ大会に、ある決意を秘め臨んでいた。
大会期間中、西村のポケットにはいつも辞表がしのばせてあったのだ。
もし、思うような成績が残せなかったなら、すぐにそれを提出し、責任を取ろうと―――。

そんな"プロ"としての矜持を持った監督・西村は、自らの分身ともいえるコーチ陣にも、
「いいと思うことを好きにやってくれ。責任は全部俺が取るから」
と言って、プロの仕事師としての役割を求めた。
それは、自分が召集したコーチへの信頼の証であり、コーチの能力を引き出すことでもあった。

大会中、こんなことがあった。朝一番の試合でいつも動きが鈍い選手がいる。
翌日の早朝6時。ホテルの窓から階下を眺めると、柔軟体操をし、ランニングに出かけるトレーニングコーチと選手たちがいた。選手は万全の体制で、その日の第1戦を迎えたのだ。

また、香港戦を前に西村が叫んでいた。
「帖亜娜は強いけど、何か勝つ方法はないのか!」
すると、戦術を担当するコーチが飛び込んできた。
「ありました。フォアミドルはボールを置きにきます。
勝負どころではここにロングサーブを出し、次を狙ったらどうでしょう?」
一晩中、何回も穴が開くほどビデオを見て目を真っ赤にしていたコーチ。この作戦を用いて、福原が帖亜娜に逆転勝ち。
日本の連続銅メダル獲得に貢献したのである。

「NTとしての目標を立て、それに見合う必要な"プロ"をピックアップする。
そして、それぞれが自分の役割をしっかり把握し、それを担ってくれた。
そういう意味では、日本の銅メダルはぼくの力ではなく"連携プレー"の賜物といえるでしょう。
選手とコーチ、トレーナー、応援してくれる人たちの総合力です」
と西村は黒衣を主張するが、しかし、そうした体制を整えたのは間違いなく監督自身の功績といえるのではないか。

その後、注目のアテネでも好成績を残した西村は、9月18日、日本卓球協会理事会で監督続投を要請される。満場一致だった。

しかし西村は、回答を保留。西村は悩んでいた。2ヶ月も苦悩した末に出した結論は、辞退だった。11月末のことだった。
「北京五輪を目指すためには、強化方針面で協会と意見が合わなかったことと、東京富士大監督を兼務する二足のわらじはこのあたりが限界でした」
というのが理由だった。そして、言葉を選びながらこうも語る。

「NTの監督は日本一の監督だと勘違いしがちです。
本当はそうじゃない。そんな動脈硬化を起こす前に辞めようと思ったのです。
それと、ぼくが辞めることが改革なんです。
いつまでも院政を敷いていてはダメだから…」


今後の卓球界には、新しい息吹をふき込むことが必要

母体の一指導者に戻った西村が、東京・高田馬場にいた。
厳しい視線を注ぎ、張りのある声で選手を叱咤激励する。連射砲のような多球練習の球出しも。その熱血漢ぶりの原点はどこにあるのか。

西村が卓球と出会ったのは富山・南部中2年のとき。
高校3年で北信越大会に優勝。全日本ジュニアでは、優勝した仲村渠功に敗れベスト8だった。
一度就職し、自分で学費を貯めて2年遅れで中央大学に入学。
多くのアルバイトをしながら、練習と学業にいそしんでいた。
ファイトを前面に出し、反骨精神旺盛な性格はこのころ形成されたのかもしれない。
「合宿があるとうれしかったねぇ。3食食えるし(笑)、練習やランニングはできるから」(西村)

全日学でランク、関東学生リーグでは17勝15敗の成績を残し、東京富士大学の監督になったのは33年前。
以来、アジアチャンピオンの枝野とみえを始め、小野智恵子、長洞久美子、神田絵美子といった日本王者を輩出。
17人の選手を世界選手権に送り込んだ。

当時を全日本3位の高木和恵子(旧姓・小室)がふり返る。
「朝の6時から監督が待っているんです。
監督と連続20セットくらい試合をして、そのあと多球練習やランニング。
次の日は監督よりも早く行こうとすると5時半に練習場に顔を出すと、もう準備しているんですよ(笑)。きつかったぁ」

全日本の予選に落ち高木和は、まったく西村に口をきいてもらえず、1ヶ月後に「一から出直せ」とひとことだけ言われた。
これがきっかけとなり、原点に戻り少しずつでも進化しなければいけないと思えた、と高木和は言う。

西村は、選手といつも一緒に練習場にいるタイプの監督である。中国から入学してきた劉停停(女へんに亭)は、そんな監督に団体戦での戦い方を学んだ、という。
「それまで本気でチームメイトを応援したことはありませんでした。でも西村監督に"和"の大切さを教えていただきました」(劉)

西村がNT監督時代に抜擢し、大きく飛躍した選手がいる。藤井寛子(当時:淑徳大 現:日本生命)だ。
「彼女はNT候補選手最後の20番目の選手だったんです。
でも、与えられたチャンスをいかし、感謝の気持ちを持って格段に伸びましたね」
と西村が言えば、藤井も、
「母体の中だけではできないようなことをNTで教えていただきました。
これからも、日本と日本人のよさをいかしながら西村監督に恩返ししたいです」
と言う。
その藤井は、先日のジャパン・トップ12で平野や福原らを破り優勝を遂げた。
その日の夜8時過ぎ。西村の留守電にメッセージが残されていた。藤井からだった。
<お蔭さまで優勝できました。これからもご指導ください>
西村には予期せぬ電話だった。すでにNTの監督は辞めていたし、藤井は他大学の選手だったからだ。この電話で西村は、NT監督としてやってきたことが正しかったのだと確信することができた。

そして西村は、今後の卓球界にはもっと新しい息吹を吹き込む必要性があると、熱く語る。
「日本がかつてのように強くなるためには改革が必要です。
古い時代の伝統的なよさは残しつつも、大胆なアイデアがなければなりません。
たとえば、NTの監督を公募しやる気のある人材を募るとか、強化本部の考えとは異なっていても優れた意見はどんどん取り入れる、などです。
目指すのは、日本が強くなるために、という一点でみな一致しているのですから」

西村はいま、大学生を指導しながら、全日学を目指す選手にはその少し上を、レギュラーでない者はレギュラーになれるようにと、どんなレベルの選手でもその能力を引き出し、伸ばすことで頭がいっぱいである。
これこそが指導者の真髄であり、西村の確固だる座標軸がここにある。
一粒の米に万人の力がこもっているように、一選手にも多くの人の力が結集されている。
その中のひとりになりたい、と西村は念じているようだ。

(敬省略)

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